そして、夏は感想文がよく似合う? 夕方、レッツ銭湯から帰ると、感想文が待っていた。小学生2人分の夏休みの宿題が、まるで靴箱の前に無造作に脱ぎ捨てられた靴のように残されている。 早朝からのレガッタの出陣と、銭湯での乾杯とで半ば朦朧としている頭は、さらに加速度が加えられて、何だか花吹雪に降られているような錯覚に陥った。 細かな花が、風に舞い、四方からとめどもなく降ってくる。花は桜ではなく、淡い彩りを添えている。秋の花だろうか。萩か木犀か、小菊のようにも見える。 朦朧とした頭には、風にそよと揺れる秋の花々が、小雨のように降っている。 少し休んでから、子供たちが選んだ2冊の本を、斜めに読んで、あらすじを書く。 1冊は、『金色のやどかり』(竹下文子作、菊池恭子絵)。 もう1冊は、『水の扉』(橋本香折作、橋本淳子絵)。 読んでいて、ああ、いい本を見つけた、と思った。
『金色のやどかり』は、あゆみという少女とやどかりのティックの物語。 新しい貝殻を探していたティックが、海に来ていたあゆみの耳を貝殻と間違えて、引っ越したことから町の生活を知る。 あゆみは、ティックから海に住む不思議な生き物の話や昔話を聞く。 互いがとても新鮮で、ティックは町の生活に、あゆみは海の生活に惹かれていく。 風が冷たくなった頃、ティックは海を懐かしむ。 海で生まれたティックには、波の音がないとうまく眠れない。 波の音がティックにとって、とても大事なものなのだとあゆみに告げる。 あゆみは、家から一番近い海までの切符を買って、ティックを海へ返そうとする。 あゆみは、ティックにぴったりの薄いピンクの巻き貝を見つけて、力一杯海へ投げた。 続いて、『水の扉』。 ばあちゃんが死んだ日、奇妙な男が現れて啓輔を水の底に誘った。 そこには昔の世界と行き来できる水の扉があった。 男は河童だった。護岸工事で土手がコンクリートで固められていく現在、河童の住む水の世界はどんどん狭められていく。河童は昔の川で住みたいと願っていた。 一方、啓輔は、ばあちゃんから聞かされていた、両側が桜並木だった頃の土手を見たかった。 水の扉を開けて、吸い込まれるように扉をくぐると、そこには満開の桜並木があった。 啓輔は、お下げ髪の少女に出合った。少女の名前は、深沢しず。 啓輔が、「ぼくが帰るところには、この桜はないんだ・・・」としずに告げると、「おかしな事を言う。桜がなけりゃ、植えればいい」と。 水の扉を抜けて戻ってきた啓輔は、しずが、幼い頃のばあちゃんだったことを知る。 啓輔は遺影を見上げ、線香を上げた。「桜がなけりゃ、植えればいい」という少女の声がまだ耳に残っていた。 さてさて、あらすじが書けたところで、子供たちとバトンタッチ。 海と川の出てくる夏らしい2冊は、心が洗われる。 水には洗濯物だけでなく、心を洗う効果もあるのか。 妙に感心して、やれやれと和んでいると、今度はこの漢字が読めない、この字は何だ、という問いの嵐。走り書きの文字は、確かに読みづらい。 しかし、朦朧とした頭でこれを書いたんだぜ、そこを察して、想像力で補え、と言いたいが、デキの悪い子供たちじゃ無理か。 感想文は、本を読んで何かを感じてくれればそれでいい。 ヤドカリが少女の耳に引っ越しをするというファンタジーが、心の奥にあるとないとではずいぶん違うような気がする。モノを作り出したり、物の本質を理解したり、言葉のニュアンスを嗅ぎ分けたりするのは、たぶんそうした心の奥行きだろう。 本を読み、あらすじを原稿用紙に写していく過程で、得られるものだってきっとあるはずだ。 それが分かるのはずっと先のことだが、少しずつでも分からせる努力を惜しんではいけないのだろう。 今日で7月が終わる。 カレンダーには、まだ1枚夏が残されているが、それぞれに似合いの夏がある。 沖縄県から約2千キロ離れた愛知県を目指していた沖縄の伝統小型漁船サバニ「海人(うみんちゅ)丸」が南知多町の内海海岸にゴールしたことが朝の新聞に報じられている。 手漕ぎのサバナで、海図やコンパスを使わず、太陽や星を頼りにしての昔ながらの航海だったと、若い船長が語っている。 暗闇の中、果たしてこの方向でいいのかと疑い、くじけそうになったこともあると言うが、こんな経験が今からの人生の中で生かされていくだろう。 妙に感心する私の混沌した頭には、昨夕からの花々がまだ、とめどなく降り続いている。 (7月31日筆)