“これは”という句もあれば、“これじゃ”という句もあって、自信作が木っ端微塵に壊されることもあれば、自信のない句が、思いがけず賞賛されるときもある。
選句眼のなさに悩みは尽きないが、技量を高めようと柳友と他流試合に出向くこともあって、努力だけは惜しむまいと、ひそかに心に決めている。
今日は「岡崎市芸術祭参加 秋の市民川柳大会」(岡崎川柳研究社主催)。100名を超す参加者とともに腕を競い合ったが、どうやら惨敗。行きの威勢の良さは、帰りには“しょんぼり”。
まだまだ将来のある身には、捲土重来を期して、次に繋げていかなければならない。 さて、今日の入選句は、次の二つ。
落花落日 窓の心が哀しいね (兼題「窓」)
落丁も反乱となるポケット本 (兼題「ポケット」)
「店頭に情念がならぶ 姫リンゴ」(兼題「店」)などは、我ながら傑作と思っていたが、見る人が見れば、タダの句なのだろう。 ということで、川柳の現況はおしまい。お休みなさい・・・。
なんだ、俳句の募集か。 「みえ文化芸術祭」とあるから、三重県からの案内なんだ。
「三重県は芭蕉さんのふるさとです」という一文が踊っているのを見ても、三重県は俳句に相当力を入れているのだろう。
さて、「光」。どんな俳句をしたためればいいのだろうか? いつだったか、テレビの教育番組で「俳句」をやっていた。 そのときの俳句は、「リンゴの皮を剥くと、光が回る」という内容のものだったが、その直感的な思いをどう“五七五”にしたためていたのか。
俳句は、思いを直截に表現していかなければいけない。その辺が「技量」というやつで、長いあいだの積み重ねがやがて生きてくる。 俳句ではないが、「光」を詠んだ川柳を少し紹介する。 これなどは、俳句づくりにも参考になるはずだ。
光るものとて仏壇があるばかり
捨てた方の道がおいしそうにひかる
母に降る雪はほのかに光りたり
ある危機の予感に光る春の潮
心がうらぶれたときは、音楽を聞くな。 空気と水と石ころぐらいしかない所へ そっと沈黙を食べに行け!遠くから 生きるための言葉が谺してくるから。 こんなことを延々と水のように書き流していく。不思議なことに、書き出しが決まれば、締めも決まる。起承転結の「起」と「結」はほぼおなじ範疇にあるのだ。 こんな具合に子どもたちの四季を綴っていく。 子どもたちが生きるための言葉を谺してくれるから、その思いの丈を切り取るだけだ。 そして、青を基調とした色彩に、所々緑や白や赤を配していく。色はその時々の気分で変わるものだが、四季のスケッチは、どこまでも淡く重ねられた点描画である。 さて、「承」「転」の部分はどうしよう。すぐに書ければ苦労はないが、どうなることやら!