2008.09.21(San) |
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■子規の死生観
昨日の日経新聞・夕刊に、正岡子規の「病床六尺」が紹介されていた。
それによると、子規の晩年が、目前に迫る死と向き合いながらの作句だったことがわかる。
死と向き合い、庭の糸瓜(へちま)や鶏頭(けいとう)、萩(はぎ)を見ていたのだろうか?
しかし、文章から伝わるものは、死の影がもたらす暗さではなく、今を生き抜く明るさのようで、それは晩年の子規の代表作(下)からもうかがわれる。
鶏頭の十四五本もありぬべし
「病床六尺」の中にこんな文章がある。
余は今まで禅宗のいはゆる悟りという事を誤解していた。
悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、
悟りという事はいかなる場合にも平気で生きている事であった。
そうか、悟りとは「死」ではなく、「生」と向かい合うことなのだ。
すぐに、越後の禅僧・良寛の言葉を思い出した。
災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候
是(これ)はこれ 災難をのがるる妙法にて候
越後・三条地震が起こったとき、良寛が知人宛てに出した手紙の一部。
良寛の自然や人の世に対しての思想がよく表れている。
災難や死に対しいたずらに悲しむのではなくて、そのまま受け入れる。その心のありよう、子規が言うところの「いかなる場合でも平気で生きる」ことではないか?
今夜は、蓮成寺(碧南市鷲林町)で心の元気塾「真宗入門講座」がある。
「病床六尺」を念頭において、のぞみたい。
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2008.09.13(Sat) |
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■川柳七句
飛行雲 孤独を空と分かち合う
鳥たちが翔けてく空の有頂天
遠花火 恋は捨て身な方がいい
肩の荷が下り秋蝶肩に降る
夏の恋モザイクにして風立ちぬ
幸せに二日遅れの猫じゃらし
食育の真ん中にある箸茶碗
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2008.09.07(San) |
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■佐久島歩け歩け海原三里
緑豊かな自然と昔ながらの原風景が残る佐久島(幡豆郡一色町)で、ウォーキングイベント「佐久島歩け歩け海原三里」が、今年も開催される。
不覚にも、この恒例行事を昨年初めて知ったのだが、もはや心は佐久島の虜になっている。
それは、下のような原風景(「佐久島十二景」風景写真コンテストより)。
佐久島に雪が降るとは知らなかった。聞くところによると、都会からのIターン組も多いとかで、この島は人の心をしっかりえぐる魅力を備えているのだろう。
昨年は小雨の中、少々の肌寒さを味わったが、今年もぜひ参加したいと思っている。
自然豊かな地で、精一杯心を豊かにしたい!
夕暮れの波ケ崎灯台 忘れた物はここにある
路地 冬の西港
佐久島歩け歩け海原三里の詳細はこちらです。
http://www.town.isshiki.lg.jp/kanko/cat208/post_2.html
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2008.08.30(Sat) |
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■キリン秋味
近所の酒屋の店先に、「キリン秋味」(麒麟ビール)がうずたかく積まれていた。「キリン秋味」は毎年、晩夏に合わせて出荷されるから、私の中では、ちょっとした歳時記になっている。
「あぁ、夏が終わるのか!」が、この季節の実感で、それに合わせるように風向きが変わった。
昨日今日とよく降った。愛知県は未曾有の豪雨とかで、それに稲妻、落雷がお供した。
ひと雨で川は力を見せつける 吉岡茂緒
死者も出た。“歳時記”も酷いことをする。
災難にあった人が早く元気になるよう、祈りたい。
この夏はよく歩いた。体力の低下が顕著になっている昨今、しかし、まだ引退するにはしばしの時間を要するから、神からのお告げがあったように、ただひたすら歩いていた。
日中は人目に触れるし、仕事もあることだし、夜歩くことにしている。それも黄昏時などというロマンチックな時間ではなく、夜の帳が完全に下りた頃、盗人がそろそろ出掛ける頃だ。
人目を避けて、夜の闇の中を潜るように歩く。この町はそれほどの闇はないから、ただ淡々と町の灯りに照らされて歩いていく。40分ほどのコースを、いともた易く完歩する。
それで、ビールが美味い。ビールをたらふく飲む。
ビールを飲むために歩いているのだろうナ!
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2008.08.09(Sat) |
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■川柳七句
掌に乗ってもいいよ青い鳥
足元に転がる恋に賭けてみる
よそ行きの涙を胸に持ち歩く
美しい涙を伝えていく聖火
空を知り鳥は人よりさみしいか
再会の火種がいのち狂わせる
金釦恋はかなしいほど光り
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2008.08.02(Sat) |
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■川柳もどき
夏痩せと答えてあとは涙かな
先年引退した三遊亭円楽さんの落語「崇徳院」(東芝EMI)を聴くと、この句が枕で振られていた。恋煩いでやつれてしまった娘が理由を聞かれて答えかね、「夏痩せです」と言ったきり後は泣いてしまったという切なさを描いた句。
川柳と思っていたが、北村季吟(芭蕉の師とされる)作とあるから、俳句なのだろう。
ある大学のゼミで、この句の解釈をめぐり話し合いがされたようである。
「夏の終わりの路上の蝉の死骸を見て、自らの残り少ない命を思い、その悲しみから泣いた」とか、「絶対痩せたいと願っていた女性がダイエットに励み、痩せることに成功した。友人には、“夏痩せ” と答えたものの、辛かった努力を思うと涙が出た」などの名(迷)解釈や「失恋」「病気」「死別」という涙の理由が飛び出した。
句意というものはかように、作者の思いとは違って読者に伝わることがよくある。それがいけないかというと、そうでもなくて、他人のより上等な解釈で句の値打ちが上がることさえある。
感性だけで川柳を仕立て上げている私にとっては、自分で説明できない場合が多いし、そんな時に限って解説を求められるから厄介だ。
一旦表へ出せば、後は読者の解釈に身を委ねるのが作品というものなのだ。
それでは不親切なのだろうか。
毎週金曜日、『金らじワイド』(FMおかざき)の人気コーナー「川柳もどき」を楽しみにしている。
私の川柳の師・會田規世児が出演している。月決めの題に読者から投句をもらい、集まった作品群それぞれに師が批評をしていく。月末には優秀賞(會田規世児賞)が選ばれる。
投句の大半は素人作品だから、意味不明な句があったり、頼りなさ、独りよがりは否めないが、それが逆に解釈の余地を残して、推理する楽しみに繋がったりする。
先週、こんな句(題は「酒」)が登場した。
悩ましくワイングラスの紅を拭く
「酒」にワイングラスを登場させること自体悩ましいと思うが、グラスから危うい男女の関係が透けて見え、何とも色っぽい。文法上、「悩ましく」は、拭くにかかる。悩ましく拭くのである。
誰がなぜ拭くのか。作者は男性のようである。
ならば、男性である作者が心の落ち着きを取り戻すために、一夜をともにした女の紅をワイングラスから拭き取ろうとした、と私は受け止めた。
不倫の証拠隠滅説など最上の解釈ではないか。
いや、待てよ。紅を拭いたのは第三者ではないか。バーでひと時を過ごした男女が帰った後、女のワイングラスに紅が付いていた。女性は魅力的だった。
バーテンは、次の仕事にかかるため、ときめかせた心を抑えるようにグラスの紅を拭き取った・・・。
「“悩ましく”と言っているのだから、紅を拭いてしまってはもったいない。僕なら紅に自分の唇をあてる」と師は冗談めかして解説をしたが、「川柳もどき」の良さは、句の技術的な良し悪しを指摘するのではなく、句に込められた人間の生きざまを温かい目で見つめていることだ。
旨い酒居住まい緩む差し向い
「“居住まい緩む”とは、気が置けないとか気を許すということ。この言い方がうまい」
酒あおり青菜に塩の明くる朝
「“青菜に塩”になるくらい飲んじゃいかん。ただそれだけの句になってしまっている」 と、どの句にも適切な(?)評を加えていく。
「酸いも甘いも噛み分けた」というが、師ほどになると作品から作者の近況が読み取れるようだ。先日の句会で、
恋をしてみな抜け殻が美しい
愛されて飲む珈琲のまろやかさ
シーソーで愛の重さを確かめる
を披露したところ、「恋しているのですか」と聞かれた。
恋も愛も卒業して久しいが、生活の安定や齢を重ねることで得た余裕がこうした句を作らせるのだろう。柳友に誤解を与えぬように、そこはやんわり否定したが、「恋愛を感じさせる」と指摘されたのは、正直うれしい気がした。
努めて明るい句を作ろうとしても、うまくいかないのが作品で、明るい句は、作者の明るさが自然に滲み出て初めてできるものなのだ。
先月、竜美丘会館(岡崎市東名大寺町)で師を祝う会が行なわれた。
昨秋受賞した愛知県文化功労賞を、師が主催する「岡崎川柳研究社」のメンバーや師が会長を務める「岡崎文化協会」の会員たちが皆、自分のことのように喜んだ。
司会は、FMおかざき『金らじワイド』のパーソナリティ・大島光子さん。
「川柳もどき」では師と黄金のコンビを組んでいる。
FMおかざきのスタッフが、日頃の恩返しと言って、会場の設営から進行、駐車場の整理まで全編を引き受けてくれた。
祝吟をしたためた。
遠花火あなたに合ったルビを振る
いかん、いかん。また「恋しているのか」と聞かれそうだ。
(刈谷文協文芸誌「群生」寄稿)
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2008.07.27(San) |
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■サイモン&ガーファンクル
日曜の夜半、久しぶりに「サイモン&ガーファンクル」を聴く。
聴けば昔に帰れるかのように、貪るように聴くのが上等なのだ。
「アイ・アム・ア・ロック」「サウンド・オブ・サイレンス」「早く家に帰りたい」「59番街橋の歌(フィーリング・グルーピー)」「スカボロ・フェア」・・・・。
「冬の散歩道」「アメリカ」「動物園にて」「とても変わった人」「4月になれば彼女は」「木の葉は緑」・・・・。何だろう、この安堵感!
夏の盛り、やがて気づかされる喪失感!
安堵感と喪失感の隙間にしばし身を入れながら、毎年聴く「サイモン&ガーファンクル」。
そんな季節でなければ聴けない歌がある!
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2008.07.13(San) |
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■川柳七句
歳時記の花を喜劇にしてしまう
折り返し点から続く無言劇
雨上がり悲しい過去を虹にする
最終のバスで明日と向かい合う
帰省して心ゆくまで知った愛
シーソーで愛の重さを確かめる
終章を翔ける夕日が美しい
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2008.07.05(Sat) |
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■祝う会
日曜日、川柳の師・會田規世児を祝う会が行われた。
昨秋、愛知県文化功労賞を受賞したということで、これまた川柳の第一人者・近藤智子と岡崎の薬剤師・安藤ゆらぎ(ともに規世児門)が発起人代表となっての盛大な会だった。
會田さんは、現在、愛知川柳作家協会の会長で、岡崎文化協会の会長もしているので、「地味な会を」という本人の意向とは違って、200人を超す参加人数となった。
4月に発起人集会が開かれたが、その後は會田さんが一人で何から何まで段取りをされて、発起人はただ口を開けてポカンとしているだけだった。
司会は、FM岡崎「金らじワイド」のパーソナリティ・大島光子さん。師が、金らじワイドの「川柳もどき」というコーナーの川柳選者をしている関係で、FM岡崎が全面的に支援してくれた。
會田さんは誰からも愛され、軽妙さと洒脱と温かみのある横顔が素敵な人だ。祝う会のフィナーレ、師が言葉を詰まらせた。幼い頃に死別した父親のことを話しているときだ。
「父親は、私の幼い頃に消防で殉職しました。人は、世のため、人のために誠心誠意尽さねばいけないということを、父は死をもって教えてくれたような気がします」
時世を考慮してか、アルコール一切ない会で、酒飲みとしては物足りない会だったが、それも良しとしなければいけない。しらふで師の川柳をとくと味わうのもまた良い!
言い勝って胸のしこりを膨らます
すべり台その一瞬の風に酔い
寝袋にやさしく届く星明かり
耳たぶと遊ぶ思案の指の先
古時計父母の歴史をまだ刻む
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2008.06.22(San) |
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■東山魁夷と守田とも和
最近、東山魁夷の作品に会う機会が多い。努力しているわけではなく、マスコミからの配信がほとんどなのだが、良い作品はやはり良い、と思わずにはいられない。
今また、吉永小百合が某メーカーのCMの中で魁夷作品を紹介している。ブームなのかと思っていたが、どうやら魁夷生誕100年ということで、多方面で取り上げられているようだ。
この魁夷の作品を見るにつれ、「守田とも和」という画家を思い出す。無名だが、見る人が見れば、守田作品は確かなもので、新美南吉のように、死んだ後評価される人なのかもしれない。
まだ、描いているのかどうか?数年前までは毎年、平原の滝で有名な「無の里」(西尾市平原町)で個展を開いていたが、還暦を機に止めてしまった。
知多郡東浦町のアトリエにもお邪魔したし、方々で開催されていた個展にも足を伸ばした。点描画の確かな技法が、美しい日本の風景に溶け込んでいた。
守田さんが目指していたのは、魁夷の世界かもしれないと、最近思うようになった。ならば、90歳過ぎまで絵筆を握った東山魁夷のように、命ある限り、貪欲に描いてもらいたいと思う。
ネットで守田さんの作品が拾えないのはさびしい限りだ。大器晩成は60代で世を見限ってはいけない。下は魁夷作品。守田さんは、これ以上の作品が描けるじゃないか!
「丘の教会」1971(昭46) 「冬華」1964(昭39)
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2008.06.14(Sat) |
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■川柳七句
愛されて飲む珈琲のまろやかさ
現在地みんなためらいがちに立つ
濾過すると過去がやさしい顔になる
遠花火あなたに合ったルビを振る
青い鳥やっと見つけた雨上がり
少子化が国のゆりかごまで揺らす
人間を置いてきぼりに梅雨走る
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2008.06.08(San) |
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■藍染絞り
あじさい祭り(蒲郡市・形原)、有松絞り祭り(名古屋市・有松町)と、妻と仲良く出かけた。
子供たちは自分のことに夢中で、誘っても、来ることが少なくなった。
そりゃそうだ。一番下の子が中学生になったのだから。子供たちとは趣味も合わないから、自然と、年のあまり違わない妻と二人きりになる。
あじさい祭りは、形原温泉郷の山の中腹に、「あじさいの里」という庭園をこしらえて、見栄えのする池の周りに五万株のあじさいが所狭しと咲き乱れている。
あじさいは、“紫陽花”と書くが、昔ながらの紫、青、赤の楚々とした色彩はノスタルジアを感じさせる。昔人間にとっての彩は、少年の頃見た紫陽花の彩でなければならないのだ。
下は、有松の町並み。この絞りの暖簾がどうも紫陽花に通じている。紺色でなくても、緑やオレンジでもいいが、絞り染めは、鮮やかな色彩を淡くさせるのに一役買っている気がする。
有松の絞り祭りは、それはそれは人でごった返したが、人通りの少ない町並みをまた妻と二人きりで歩くのも悪くない。藍染絞りを土産に、広重の気分で歩いてみようか・・・・。
有松の町並み
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2008.05.25(San) |
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■衣更え
「夏服移行期間のお知らせ」が、息子の通う中学校から届いた。「新緑の候・・・・さて、ここ最近、日中の気温がますます高くなってきたことで、冬服での生活を不快に・・・・」
移行期間開始は、5月7日。夏服移行完了日は6月2日とある。温暖化の影響は衣更えにまで及んでいたのか?衣更えは6月1日と信じて疑わない世代と若者たちとの隔離があるはずだ。
歳時記もことさように、微妙なずれが生じてきている。それはそれで仕方のないことだが、この先、俳句などやる人がいなくなってしまうのではないかと、心配になる。
更衣着て恥じらいの歩を速み 光石
「光石」とは、噺家・入船亭扇橋さんの俳号。扇橋さんがこの句をテレビで披露していたのは、もう20年ほど前か?夏服に着替えて、外に出た時の浮き足立つ心が覗かれて、うれしくなる。
そう、若木がどんどん育っていく初夏は、うれしい季節なのだ。我が家の歳時記は、5月前半は、苺。それはそれは、苺がたっぷりと実る。水で濯いで口にすると甘酸っぱい香が鼻を突く。
食べ切れない分は、ジャムにする。水飴のような甘い香ばしい香が、家の隅々まで流れる。そして、後半はやっぱり衣更えなのだ。
為すべきこと為して死なんと更衣 川端梧葉
今日新聞で見つけた句。言わんとすることはわかるが、なんせ句が暗い。初夏には明るい句が似合うのだ。ということで、これまた今日見つけた句。心が少し伸びやかになる。
シャボン玉素直に吹けば七色に 神保友雄
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2008.05.10(Sat) |
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■川柳七句
青空のどこかに潜む五月病
雨ばかり雨の心の音を聴く
恋をしてみな抜け殻が美しい
樟脳のほのかな匂い閉じ込める
リトマス紙透かすと見える赤い糸
未来図へわたしを放つ朝のバス
この町のこの店が好きプチ旅行
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2008.04.27(San) |
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■金雀枝
「上原彩子初優勝!」の女子プロゴルフを見終わると、家人から使いを言い渡された。
墓参りである。庭に咲いた花を新聞紙で束ね、手渡されたのだ。
仏を見舞うほどの殊勝さは端からないが、それでも散歩のつもりで歩いていけば、運動不足も幾分解消されるので、それもいいかと思った。
花を持って歩くなんて何年ぶりか?学生の頃、どこかのデパートで貰ったカーネーションを家に持ち帰ったとき以来だと思った。その時も今日のように気分が良かった。
道中、金黄色の花を一杯咲かせている低木を見た。フリージアを思わせるような花だ。何度も会っている木だが、ついぞ名を知らずに来てしまった。
園芸誌で調べてみると、金雀枝(えにしだ)。なるほど、無数の金の雀が枝にぶら下がっている様が目に浮かぶ。先日出会った「鯛釣草」といい、花の名は言い得て妙なものが多い。
墓では、水を汲み、花を取り替え、墓石の上に散った花びらを片付け、般若心経を唱えた。ずいぶん前に覚えた経が役に立つのは、うれしいことだと思った。
帰り道、再び金雀枝の前を通る。マメ科の落葉低木は、清楚な輝きを放っていた。
金雀枝
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2008.04.12(Sat) |
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■川柳七句
未来図の花へわたしを解き放つ
羊の群れのなかで奏でる鎮魂歌
禁断の木の実が花になりすます
足音を残すと明日がわだかまる
さよならを言えない花の温かさ
晩学に机のきずがいとおしい
未来地図やがて教え子から学ぶ
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2008.03.30(San) |
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■春雨は乙なもの?
桜が見頃だというのに、雨がしとしと音を立てる。春雨とはもっと乙なものと思っていたが、そう感じられないのは気分が悪いせいか?花粉症に鼻風邪が手伝って、いささか体調不良。
気分の悪いときには体を休ませた方がいいが、しなければいけないことも一杯あって少しずつ片付けている。頭を空っぽにする時間が、しみじみ欲しいと思う。
空っぽの玩具箱から咲くさくら 比呂志
こんな句を作ってみた。なんだろう、空っぽの玩具箱って・・・・。まさか自分の空っぽの頭ではあるまいし。頭から桜が咲くなんてのは、落語「あたま山」の世界だネ。
そんな思いがあったのだろうか?実際、作句はその場の感性だけで仕上げているから、理論だった筋立てをすべてないがしろにしている。作った本人が解釈不能なのだ。
それもいいといえばいいのだが、解説を求められるから厄介だ。作品として表へ出せば、後は読者の解釈に身を委ねるのが作品というものなのだ。それでは不親切なのだろうか?
少々熱がある。そんな中で今夜も飲んでしまうのだろう。風邪薬飲んで、焼酎飲んで・・・・。
空っぽの頭の中に、花が霞のように架かっていく。
桜ではなくて、蜘蛛の巣のようにも思える。そうすると無数の蜘蛛の糸が、放心状態の脳を紡いでくれているのか?そうであれば蜘蛛に感謝!
蜘蛛の巣が破れて青空がきれい 河合克徳
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2008.03.23(San) |
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■いのちの俳句
先日、「いのちと献血 俳句コンテスト」の入賞作が発表された。
審査委員長は、俳人・黛まどかさん。素敵な人だ。下は、表彰式での黛さんの挨拶。
「俳句は、命へのあいさつ、レクイエムです。俳句に含まれる季語には、花鳥風月をはじめとしてさまざまな言葉がありますが、それらはすべて命なのだと思います」
「春風を“風光る”と表現したり、野山の春を“芽吹き”と表現することは、そこに命を見ているからでしょう。詠み手が、そこに輝いている数多くの命を詠み込むことで、俳句は生まれます」
そうか、俳句で詠み込まなければいけないのは、命なのだ。これほど俳句というものを的確に表現した言葉があっただろうか?芭蕉も一茶も子規も、連綿と命を紡いできたのだろう。
さて、入賞作品は次のとおり。どちらかというと川柳に近いのでは・・・・?
●厚生労働大臣賞 香川県 高松市立太田中学校二年 高木 麻依加
まだ知らぬ赤ちゃんのため毛糸編む
●文部科学大臣賞 東京都 私立東亜学園高校二年 矢野 祐策
地球儀の裏にも冬日当ててやり
●日本赤十字社 社長賞 奈良県 奈良市立済美南小学校六年 真中 築
こたつの中家族の足がつまってる
●日本赤十字社 献血事業本部長賞 北海道 茶木 ひろし
緑陰を少しはみ出し献血車
●ピカチュウ賞 青森県 十和田市立十和田湖小学校二年 木村 優莉
桜さく馬の赤ちゃんすぐ立った
黛まどかさんのホームページ 「黛まどかの俳句 ア ラ モード」
http://madoka575.co.jp
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2008.03.08(Sat) |
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■川柳七句
寄り添って吹雪の中にいる温さ
火の酒に酔って炎の粉に包まれる
酔えばまた振子が妻の掌に落ちる
酒の炎をしずかに煽る花の冷え
春泥にいのちの酒が沁みていく
酔えばまた何かが変わる風の音
あのひとの傍に咲きたい福寿草
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2008.03.02(San) |
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■再び春が来た!
「紫(ゆかり)」という美味い焼酎を見つけた。種子島酒造の芋本格焼酎25度。甲山水(種子島の深層水)での仕込み、割水を行っている。なめらかな優しい水だ。
一次、二次ともカメ壷での仕込み。芋は種子島で栽培されているムラサキ芋、「種子島紫」を使用。この紫芋は、糖度が高いことから食用としても人気が高く“幻のいも”として市販。
ストレートのままグラスに注ぐと、サツマイモならではの、あの、あま〜い香りが印象的。そして、紫芋ならではのフルーティー旨み。まるで蒸かしたてのサツマイモをほうばるような味わい。
この酒はいつか半田市で買い求めたが、その美味さから再び買いに行ったら、店はすでに閉鎖、セブンイレブンになっていた。先日、近くにある「酒のすぎた」で再会したわけだ。
「わたしたちの蔵の焼酎はすべて手を掛け魂をつぎ込んで造っています、どこにも負けません!」と誇り高く蔵人が語っているが、自信と誇りは大切なメーカーとしての条件なのだ。
さて、今夜も「紫」の栓を開ける。コクのある香り。口に含むと吟醸酒のような淡麗さ。キレがあり、またコクも深い。丁寧な造りを感じさせる逸品だ。
上品、都会的、しかもなお芋の風味をしっかりとボディに確保している酒。飲んだ後の後味の深さには唸らせられる。
種子島酒造「紫」(ゆかり) かめ壷仕込み
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2008.02.24(San) |
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■春が来た!
先週の日曜日、娘が通う製菓専門学校の製菓祭。11時の開始に合わせて自宅を出発。
開始時刻を少し過ぎて会場に到着。入り口は洋菓子、パン、焼き菓子を求めて長蛇の列。
妻と次男坊をお供に、ひとしきりみぞれが舞うのを見ながら、列の中にいた。すぐ前に三重県から来たという婦人とその友人。娘の誘いで初めて来たようだった。
話すと、娘同士が友達とかで、我が娘のアパートへ泊まったこともある様子。学生時代は、みんな青春しているのだ。製菓祭の客はそんな親馬鹿たちも集まって、すごい人の群れ。
ケーキ、パン、焼き菓子と一通り買って、生徒たちの展示も見て、退散。帰りには栄地下のそば店でとろろそばを食い、名駅の高島屋・赤福茶屋で赤福と抹茶を所望。
赤福茶屋の店員は一生懸命だった。不祥事があった分、赤心(まごころ)が磨かれた。悪く言う人も多いが、それでいいのだ。
今日は、長男坊の免許初回更新に付き添った。平針運転免許試験場へ息子を置いて、そのまま近くの名古屋農業センターへ。枝垂れ梅が有名なところだ。
見頃にはやや早いが、枝に蕾を一杯付けている梅の姿もいいものだ。雛祭りの頃には満開になるだろう。まんさくは満開、シロモクレンは今か今かと開花を待っている。
春なんだ。昨日は長男坊の21歳の誕生日を祝って、深夜に自宅近くの「やきとりの扇屋」へ行ったが、帰りはみぞれの中、生まれて初めて感じる寒さを体験した。
しかし、確実に春は隣に来ていて、まもなく姿を現わすだろう。
そんなことを感じた農業センターだった。
春が来た草木が原始語をしゃべる 比呂志
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2008.02.09(Sat) |
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■川柳七句
春愁の街がしずかに風を吐く
春が来た草木が原始語をしゃべる
いちめんの菜の花妻が着痩せする
手弁当開けると春がよく喋る
カーナビにも静かに春が訪れる
鍵穴から光っているスッピンの街
ひとしきり笑ったあとの座が温い
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□2008.02.03(San) |
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■今年も春が来る
今年も一月が過ぎた。今日は節分、冬と春を分ける日。元来、節分は一年に四度あり、それが春夏秋冬を分けていったのだが、今はこの時期の節分だけが残っている。
明日からは暦の上では春なのだが、寒さとやらはピークで、何やら、夜明け前が一番暗いという現象に似ている。しかし、明日からは三寒四温を繰り返し、春に近づいていくのがうれしい。
今日、娘が通う専門学校から「製菓祭」の案内があった。“a memorial festival”〜10周年を迎えて〜がテーマの「製菓祭」だが、どんな祭りとなるのか?
日頃実習で鍛えている腕を振るうとかで、ケーキの作品展や即売などがあって、楽しみだ。学生たちも、パティシエを目指して学んできた成果を十分に発揮したいところだろう。
寒さとは裏腹に、思いはすっかり春になっている。何かうれしいことが起こりそうな予感。春を待つ心は今年も健在で、いくつになっても変わらないからありがたい。
蝶が翅を広げるように、心が広がっていく・・・春なのだ!
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□2008.01.27(San) |
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■一人一訓
一人一訓貰った名刺たんとある 會田規世児
今年頂いた賀状を整理していたら、川柳の師匠・會田さんの筆が目に留まった。律儀な師匠は貰った賀状には必ず返事を書くようで、それも、その人に合った川柳をしたためるとか。
毎年500枚以上を自筆で書くというのは、とんでもない作業で、全部書き終わる頃は、お年玉年賀ハガキの抽選日前後。もっとも今年は抽選日が27日だから、悠に間に合うという。
ところが、今年の先生は、「こんなことをしていたらいくら時間があっても足らない」という弱音を吐いて、途中から印刷に切り替えたそうだ。そりゃそうだ、500枚をいちいち手書きでは・・・。
ということで私に来た賀状は、無論印刷。今こうして刷られた筆の跡をなぞっている。それで価値が半減してしまうかというと、勿論そうなのだが、印刷も中々いい味を出している。
昔ながらのガリ版で、色合いに、パソコンの印刷にない奥ゆかしさがある。先生の賀状を心待ちにしている人も多いとかで、賀状の売れっ子作家は今年も健在である。
さて、「一人一訓貰った名刺たんとある」。いい川柳だ。吉川英治の「我以外皆師」を彷彿とさせる。生き方の基本は、他人の一訓を見つけていくことなのかもしれない。
さて、今年の抱負。これまた吉川英治の“一訓”である。
晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。
楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ。 吉川英治
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□2008.01.12(Sat) |
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■川柳七句
回帰線たどれば母のいる町へ
陽を抱いて土偶が少しだけ笑う
氾濫もあって豊かな川になる
ひと椀を抱えて人が生かされる
新緑が湯飲みの淵に延びてくる
緑茶汲む冬の樹海に誘われる
ヘルパーのいない宴の花ざかり
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□2008.01.05(Sat) |
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■ご祝儀気分から徐々に・・・
新年も明けて5日目だと少々気持ちも萎える。ご祝儀気分が徐々に仕事モードに切り替わるからだろう。午後は、NHK教育で小三治の「初天神」を聞いてから、恒例の20`散策。
3時間を優に超す、20`散策は次のコースをたどる。
自宅 ⇒ 春日町道祖神 ⇒ 鬼の道 ⇒ 高浜かわら美術館 ⇒ 衣浦大橋東 ⇒
汐留橋 ⇒ 八剣社跡・州崎公園 ⇒ 宝殿社 ⇒ 明石公園 ⇒ 港新川橋 ⇒
新須磨橋 ⇒ 海浜水族館・青少年海の科学館 ⇒ 臨海体育館 ⇒ 臨海公園 ⇒
港大浜橋 ⇒ 衣浦海底トンネル ⇒ 半田緑地公園 ⇒ 半田臨海野球場 ⇒
衣浦西部臨海公園 ⇒ 阿久比川 ⇒ 日東橋 ⇒ 亀崎海浜緑地 ⇒ 神前神社 ⇒
海潮院 ⇒ 衣浦大橋 ⇒ 高浜かわら美術館 ⇒ 鬼の道 ⇒ 春日町道祖神 ⇒ 自宅
無論立ち寄ったわけではなく、通過するだけだが、歩くという行為は、そのスピードゆえにすべてが目に焼きついていく。大切なことだ。
春の宝殿社の桜、海浜水族館・青少年海の科学館のハナミズキ、明石公園や臨海公園のツツジ、そして亀崎海浜緑地の潮干祭りが目に浮かぶ。すぐ先のことだ。
そういえば、午前中の稗田川散策(約5`)で蝋梅が咲いていた。蕾ではなくもうすっかり花をつけていた。温かいところの蝋梅はすでに春なのである。
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