□2004.03.27 (Sat) |
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■自信
本棚の本を繰っていたら、なかに中日新聞の切抜きが挟まっていた。
栞代わりにしていたのだろう。
心に引っかかる部分があって、新聞を切り抜いたのだと思うが、いい言葉だった。
今でも中日新聞一面に連載されている歌人・岡井隆さんの『けさのことば』。
切抜きの裏文字に目をやると、「梶山静六官房長官」「加藤紘一自民党幹事長」「井出正一新党さきがけ代表」といった名前が載っているので、おそらく7、8年前のものだろう。
切り抜きは、小林秀雄「道徳について」の一節である。
『自信といふものは、いはば雪の様に音もなく、幾時の間にか積った様なものでなければ駄目だ。』
岡井さんはこう解説している。
『自信が湧くという。自信が着くともいう。だが自信はやみくもに湧いたり着いたりはしない。静かに長い時間をかけて「雪の様に音もなく」積もるものだ。「さういふ自信は、昔から言ふ様に、お臍の辺りに出来る、あたまには出来ない」臍下丹田に自信が「積」もるまでには時間がかかる』
このあたりに生きる上での本質がありそうだが、人は、なかなか待てないものだ。
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□2004.03.20 (Sat) |
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■歩くということ
昨夜は久しぶりに歩いた。
2日に1度は自宅の近場を散歩しているので、「久しぶり」とはおかしな言い方だが、長くまとまった距離を歩くのは久しぶりだ。
昨日は夜7時から中小企業家同友会の地区総会があり、二次会、三次会と過ごしたときには12時を回っていた。
その時間に家人を起こして迎えに来てもらうのもためらわれたので、結局歩くことにした。
貧しい街灯の下をトボトボ歩く姿は滑稽なものだった。
何をしているんだろうね、私は。
10`くらいの距離を歩くことが1年に1度くらいある。
歩くことが好きだからいいが、景色の閉ざされた深夜は少し味気ない気もする。
遠い星を見上げながら歩くのもいいものだと、自分を慰めるしかない。
2ヶ月前も知立図書館まで歩いた。
家人が入会しているパッチワークサークルの展示会が知立図書館の隣で行われていたので、歩いて見に行くことにした。
1時間半くらいかけて歩いて行った。
日曜の午後、まだ弱い日差しを背に受けて颯爽と歩いた。
右往左往する自動車のはざまを歩いて、何が面白いのかね、私は。
しかし、歩かなければ見えないものがあって、例えば木蓮があの白手袋をはめたような手を少しづつ開きかける瞬間や土筆が隣の土筆に語りかけている姿などは、どうあがいても自動車からは見えないのだと思う。
それを見たいがために歩くという行為があるのだろうか。
それとも単に変わっているのか。
後者のほうが当たっているような気もする。
展示会の見物後、家人の運転する自動車で自宅まで帰ってきた。
自動車での道のりは15分ほどだった。
何か空しいような気がした。
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□2004.03.13 (Sat) |
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■川柳七句
ポンと黄身二つ出てきた朝うれし
宅配のきっちり運ぶ朝から雪
運不運よいほうにとって終電車
燗冷ましぐびりやる日の子を思う
大木がなぎ倒されてからの空
切なくて鳩になりたい日もあるさ
さらさらと黄砂の頃に来る微熱
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□2004.03.06 (Sat) |
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■コウナゴ漁解禁
春を告げるコウナゴの漁が解禁され、碧南市の大浜漁港は水揚げで活気づいている。伊勢湾の知多半島野間沖や三重県鳥羽市の石が瀬と呼ばれる漁場で、午前6時から10時まで網を入れ、昼前に同漁港に戻る。この地方では釜揚げした後に天日干しし、東京や名古屋の市場に出荷される。大浜漁協では「口開け1週間が漁獲量も多く、まさに今が旬。カルシウムやリン、鉄分やビタミンDの多いコウナゴは自然の健康食品です」と話している。(中日新聞西三河版)
コウナゴ漁が始まった。
漁師たちの勇ましい姿や水揚げされたコウナゴを作業場で手際よく釜揚げしたり、天日干しする女性たちの姿が目に浮かぶ。
ああ、春なんだと思う。
この光景は毎年、テレビのニュースや新聞の記事として映し出されるので、知る人も多いと思うが、春を告げるこの漁が漁師たちの今年の始まりと言っていい。
雪国で、冬の間じゅう畑地の仕事ができないように、この地方で沿岸漁業を営む海の男たちもまた冬の間、漁を禁止されて春まで待つ。
それで、解禁となれば漁場は一斉に活気づき、気の荒い海の男でひしめき合う。
それぞれの春がそこにある。
13年前の春、漁師一家の従兄弟が海に落ちた。
コウナゴ漁の解禁の日だった。
知多半島野間沖で朝の漁を終え、帰りの船中から海に落ちた。
船頭が気づいたときには、従兄弟はもう船にいなかった。
海に落ちてから大分時間が経過していたのか、船頭が海路を引き返しても見つからなかった。
それから半年の間、家族は海を捜しまわった。
親戚一同は、従兄弟が見つかるようにと祈りを込めて、写経した数十枚の半紙を海へ流すことにした。
流す日の前日、従兄弟は鳥羽海岸の海苔の養殖場で見つかった。
わずかにあの日と同じ被服を身にまとっていた。
最後は歯型が決め手となって家族に引き渡された。
家族は鳥羽でねんごろに火葬して、骨だけを持って帰ってきた。
春夏の半年の間どうしていたのだろうかと思う。
海底の竜宮城で乙姫様相手に飲めや歌えやの宴をはっていたのだろうか。
半年が6日くらいに感じられたのだろうか。
海もまた人と同じように感情を持っている。
だから、時として人を飲み込むのだろう。
コウナゴ漁で消えた従兄弟の魂はやっぱり乙姫様のところにあるのだろうな、そんな気がする。
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□2004.03.02 (Tue) |
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■からすなぜ啼くの
事務所の3階の窓から外を見ている。
隣家の屋根と電信柱と暮れかかる空とが見える。
電信柱の天辺にカラスが止まっている。
このところ、とみにカラスが増えたような気がする。
ビルの屋上や欅の大木などに巣くって、何やら地上をうかがっているその夥しい数にしばしば驚くことがある。
カラスは自然の摂理で増えていくのであろうから、とやかく言うわけにはいかないが、その匂いを嗅ぎ分けて、地上の残飯入りのビニール袋を無残に引き千切っていく姿には、悪意さえ覚える。
あの頃のカラスはよかったなあ、と思う。
幼かった頃に歌った「七つの子」や「夕焼け小焼け」の中に出てくるカラスだ。
可愛可愛と啼くカラスは野口雨情の世界だが、そこには晩秋の風のようなさみしさが流れている。
ああ、春になったのに晩秋を持ち出さなくてもいいのに、と思う。
本当は“春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ”と歌ってみたかったが、『赤いスイートピー』は、この次にします。
暮れ方の空は少しだけ人を感傷にさせるのかも知れない。
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□2004.02.21 (Sat) |
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■佐布池の梅見
暖かい週末の午後。
家にくすぶっているのはもったいない、と思いつつ疲れた体を休めている。
年末から1月、2月と寒さを感じる暇もなく、あわただしい日々が過ぎて行った。
おかげで風邪ひとつひかないでいられる。
一息ついて、季節をしみじみ眺めると、すでに三寒四温の頃を迎えている。
2月も下旬となれば、梅の花がほころび、甘い香を放っていく季節だ。
佐布里池の梅もそろそろと思うのだが、まだ早いだろうか?
いや、今なら梅見よりも中馬街道のお雛様だろう。
遊ぶにはこと欠かなくて、春を待つ喜びでいっぱいなのがこの時季である。
昨年、佐布里池の梅見に初めて行った。
所によってはすでに見頃を過ぎていたが、日当たりの良くない所は今を盛りに香っていた。
佐布里池を日本一の梅所にしようと、知多市のJCの会員が力を入れているようだった。
地域の商店街、農協などと連携をとり合い、梅祭りが盛大に繰り広げられていた。
梅は香るものだろう。
桜が咲くところに価値があるように、梅は甘い香をいっぱい放つところに価値がある。
そして桃の花もまたいい。
桃の花にはどんな価値があるのだろうか?
中馬街道のお雛様には、桃の花が良く似合う。
雛祭りは桃の花でないといけない。
そんなことを考えているうちに今日も日が沈んでいく。
明日は子供たちとどこかへ行こうか?
佐布里池がいいか、中馬街道がいいか、子供しだいである。
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□2004.02.14 (Sat) |
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■川柳七句
コーヒー香るほどの贅沢 椿咲く
廃線に青の時代がよみがえる
帽子屋の角を曲がって南風
悲喜劇のはざまでミカンむいている
労働の後の楽しさ ラムネ飲む
酔いどれの独楽ちりぢりに散る場末
楽しげに泳ぐ金魚に猫の影
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□2004.02.08 (San) |
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■続けるということ
7年前にお客様から頂いた鉢植えのシンビジュームが、事務所の出窓で二度目の花を咲かせようとしています。
長いトンネルから抜け出し、再び「花」を咲かすことがあるのですね。
経営には、しばしばこうしたトンネルをくぐるということがありますが、大切なことは、諦めずに「続ける」ということではないでしょうか。
続けていれば、いずれ「花」が咲くものです。
小さい頃の自転車の初乗りも、鉄棒の逆上がりも最初はうまくいかなかった、という記憶があります。
諦めてしまいそうになりますが、「いやまだまだ」と奮起したり、他人(ひと)が後押ししてくれたり。錯誤しながら試行することで、ある日、ある瞬間、突然できてしまう。
肝心なことは「できるまでやること」だと思います。
それにしても、花はいつまでも変わらない。
年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。
いつでもどこでも、哀しみを癒してくれる。
そういえば、伊集院静のエッセーには、いつもみずみずしく花が登場する。
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□2004.02.01 (San) |
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■黄昏の風景
午後5時を少し過ぎている。
黄昏というにはまだはやい。
ずいぶん日が長くなったもので、この時間から散歩に出かけても、道々の草花の色彩がはっきり分かる。
散歩道に、蝋梅の花が綺麗に咲いているところがある。
夜通ったとき「ああ、早い梅が咲いているな」と思ったが、昼中に通ったら、蝋梅の花だと分かった。
昼の散歩は色を楽しめるからいい。
町々の梅や椿のつぼみが膨らんできた。
我が家の椿もまもなく花をつけるだろう。
昨年は剪定の時期を誤ったせいか、つぼみがつかなかったが、今年はすでに十ばかりのつぼみをつけている。
あと2週間くらいで花を咲かせるだろう。
立春とはよくいったもので、季節の花々が春を告げていくのである。
ことしもひと月が駆け足で通り過ぎていった。
忙しい日々を過ごせることは、感謝しなくてはいけないと思う。
しかし何に感謝すればいいのだろうか?
とりあえずは、その季節に感謝してみよう。
暑くとも寒くとも、人を包み込んでくれる季節はありがたいのだから。
冬と春を分ける節分がまもなくやってくる。
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□2004.01.24 (Sat) |
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■水のうつわ
先回、伊集院静のエッセー『水のうつわ』について少し記したが、全編を通して流れているのは、「哀しみ」であった。
文庫本の裏表紙にはこう書かれている。
35歳の夏。妻を亡くした哀しみと失意の果てに、ギャンブルに明け暮れていた荒んだ日々。
その旅先で、ある小説家がぽつりと呟いた言葉が、私の生き方を決めた・・・・・・。
妻とは、白血病で亡くなった女優・夏目雅子さんのことである。
伊集院さんは、ある日旅先でひとりの人間と出逢う。
そして、いつしか小説を書き始める。
その経緯(いきさつ)が「付知町」のなかに、次のように書かれている。
魅力のある人だった。
こういう人間がいるんだ、と感心した。
こんなふうに生きることができたら、とも思った。
その人の職業が、小説家だった。
小説を書くことで、この人のような人間に近づけたら・・・・・、と考えるようになった。
「君、小説はもう書かないのかね」時折、その人から酒場の隅で言われた。
「諦めました。自分には無理です」
「そう自分で決めるものでもないよ」
「才能がありませんから・・・・・・」
「才能? そんなものは誰だってないさ。相撲と同じだよ。毎日四股を踏んでるうちに、少しづつ相撲が身について来るんだよ。どうだい、今の旅が終って東京へ戻ったら、どこか安い宿にでも泊まって、相撲の申し合い稽古みたいに、小説の勉強をしないか」
そんなことがあり得るのかと思ったが,それならやるだけやってみようかと思いはじめた。
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□2004.01.17 (Sat) |
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■親孝行が運を開く
雪が降っている。
一茶が「むまさうな 雪がふうはり ふはりかな」とよんだような雪だ。
昨夜、伊集院静『水のうつわ』(幻冬舎文庫)を読み終えた。
エッセイの全編にあるのは「人の生」や「生きること」について。
人間が自然の前で決して抗うことのできぬちっぽけな存在だということ。
おそらくそうだろうと思う。
目鼻をもらう前の雪だるまのように、自然の前では人間は生かされているだけだ。
まだ半ばの私には(それほど若くもないが)何やら考えさせられた。
これについては後の日に譲るが、今日は「親孝行が運を開く」について紹介していきます。
語り部は横浜ブリキのおもちゃ博物館館長・北原照久さん。
『1月は親孝行する日と決めている。2日は父の墓参りだ。父は東京・京橋でスキー用具専門店を経営していた。酒好き、世話好きで、いつも赤い顔で近所を出歩き、「疾風のように現れて、疾風のように去っていく」月光仮面のような人だった。
今年も、霜柱を踏みしめながら母と訪れた墓前で、「お父さん、きっと喜んでいるよ。賑やかなことが大好きだったから」と、いつもの年と同じ会話を繰り返してきた。
30日の僕の誕生日には、母にプレゼントをする。今年90歳になるが、幸い今も元気でかくしゃくしている。俳優の高嶋忠夫さんに「命がけで生んでくれたのだから」と勧められて以来の習慣である。
僕の体内には、父母を通じて多くの先祖から受け継いだ血が流れている。親が2人,祖父母が4人と数えていくと、10代遡るだけで1024人。そして親や先祖を大切にすれば、血だけではなく運も分けてくれる。僕は、そう固く信じているのだ』
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□2004.01.10 (Sat) |
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■川柳七句
いい人をやめて齧っているレモン
縦書きの詩が滲んでいる雨の邦
切なさを癒してくれた硯石
出囃子に過去の余韻が消えていく
木枯らしと赤いベンチの話し合い
願いごと雨のち雪が降りつづく
初日の出ときには凧になつてみる
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□2004.01.03 (Sat) |
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■ごんぎつねの会
「ごんのかわら版」という発行誌(季刊)を目にしました。
かわら美術館のロビーに市の広報誌と一緒に並んでいたのですが、すぐに新美南吉に関するものだと分かりました。
そう、誌名は新美南吉の代表作「ごんぎつね」から来ているのですね。
新美南吉といえば「ごんぎつね」の他に、「おじいさんのランプ」「手袋を買いに」などが国語の教科書に載せられていて、そこには親と子、人と動物との間に流れる愛が温かい言葉で綴られています。
かつての新美南吉ファンとしては、ありがたい機関紙です。
第36号(15・12・5発行)には、南吉の詩が紹介されています。
南吉も詩を書いたんですね。
一読して「ああ、詩だな」と思いました。
皆さんも読んでみてください。
「ごんぎつねの会」に関しては案内板を参照ください。
■ひよこ
君だって、おとなのすることだけはする。
開放されると、自由と広さを味わってみるため、力いっぱい羽ばたくのだ。
ただ、そのとたん、一尺ばかりよろけていって、尻もちをつくというだけのことさ。
■泉
ある日、ふと泉が湧いた。
わたしのこころの落葉の下に。
蜂がきて、針とぐほどの小さな泉。
しようもなくて、花をうかべてながめていた。
■蛇
君は草の径に、ながながと寝そべっている。
通せんぼというわけか。
よしてもらいたいよ。
そんな愛嬌。
■五月の星は
五月の星は、林檎酒(シイドル)の泡を吹き、蛙の歌手たちの咽喉をうるおす。
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□2003.12.31 (Wed) |
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■最初はみんな
作家の安倍龍太郎さんの「交遊抄」。
相手は10年ほど前に他界された井伏鱒二さん。
いわずと知れた「山椒魚」や「黒い雨」を著した文豪である。
安倍さんは、作家になりたくて27年前に上京。
自分の力量を計ってもらいたくて尊敬する文豪の自宅へ押しかけた。 初めは面会を断わられたものの、昼過ぎにもう一度訪ねると、仕方なげに居間に通された。
持ち込んだ30枚ほどの短編を読んでもらったところ、感想は「君は下手だね」
しかしすぐに「でも、最初はみんな下手だったんだ」と昔を懐かしむようなやさしい目をされた。
「君は作家になるつもりか」
「君、作家は儲からんよ」と、しみじみつぶやき、出前の蕎麦を馳走してくれた。
「最初はみんな下手だったんだ」
という井伏さんの言葉が、行き詰ることの多い下手な作家を励ましつづけてくれる、と安倍さんは結んでいます。
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□2003.12.26 (Fri) |
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■サンタが街にやって来た
23日午後5時すぎ、名古屋市中区錦の名古屋テレビ塔で、高さ約100bにある展望バルコニーから、男性が大量の米1j札と100円札をばらまく騒ぎがあった。
男性はまもなく、テレビ塔の職員らに取り押さえられたが、中署の調べに「株で大もうけしたので市民に還元したかった」と話している。
テレビ塔周辺の買い物客らは、思わぬ“クリスマスプレゼント”に驚きながら、歓声を上げる人もいて一時、騒然とした。(中日新聞)
世知辛い世の中にあって、なにかホッとするような話です。
今日は中華航空機墜落の賠償訴訟の判決がありました。
原告である遺族側は、当然多額の賠償を期待するでしょうし、被告側は逆を祈るでしょう。
相手から「もらう」ことばかりが先立ち、相手へ「与える」ことが希少なのが世の中なのでしょうか。
「金がありすぎて人生がつまらない」と“サンタ”さんは言っています。
そうかも知れません。
金がないということは考えようによっては面白いことで、工夫とか創意というのは、金がないから生まれてくることが多いのではないでしょうか。
「1ヵ月を1万円で暮らす」というテレビ番組を見ていると、ああ俺もやってみよう、などと思ってしまいます。
貧乏を競う「銭形金太郎」というよく分からない番組がありますが、これなんか見ていると貧乏をいかにも楽しんでいるようで、共感してしまいます。 金に代えられない「貧乏暮らし」とはなんとも面白い話ではないですか。
世の多くの人が“サンタ”さんならいいのに・・・・・・。
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□2003.12.18 (Thr) |
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■高田の馬場の三畳
日経新聞・文化面の「交遊抄」を何気なく読んでいたら、漫談の林家ぺーさんの名があった。
かつて「池袋演芸場」で何度も見た芸人さんで、すこぶる愛着がある。
わたしが池袋へ通っていたのは20年近く前になる。
結婚式の帰りのような派手な衣装に身を包み、ギターを抱え舞台で話したり歌ったりする姿(とりわけ裕ちゃんを気取って「慶びの酒松竹梅」と熱唱する場面)が昨日のように思い出されるが、「交遊抄」はペーさんの違った一面を見たようで、いささか面食らった(シャレです)。
以下は、扶桑レクセル社長の安倍徹夫さんが書いたもの。
「高校三年になった昭和三十七年の春、札幌から東京の高校へ転校した。
単身上京して見つけたのは高田馬場の三畳で家賃二千円のボロアパート。
住人の大半が早稲田の学生か予備校生だった。
大家さんや商店街の人たちに親切にしてもらい、故郷を離れ、右も左も分からない高校生には、人の優しさが骨身にしみた。
隣の部屋には佐藤嘉彦さんという大阪出身の予備校生がいた。
毎日深夜まで勉強する努力家で、模擬テストはいつも上位。
共同トイレの壁に歴史の年表などを貼り、トイレの中からも大阪訛の読誦が聞こえ皆の人気者だった。
心の温かい人で、夏休みに帰省するとき、上野駅まで見送りに来て餞別をくれた。
紙袋の中は十円玉などの小銭で五百円ほど入っていた。
それが有り金のほとんどだった。
佐藤さんの夢は「早稲田で演劇を学び、役者になる」ことだった。
だが不況の時で、年の暮れにお父さんが家業を継ぐよう説得に来た。
その夜、受験を断念した彼が号泣する声が薄い壁を通して聞こえた。
二年後、佐藤さんは再び上京、林家三平師匠に弟子入りした。
その後、林家パー子さんという素敵な女性と結婚し、今は林家ペーという芸名でテレビで活躍している。先日電話があり、年末に四十一年ぶりの再会を約束した」
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□2003.12.12 (Fri) |
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■川柳の楽しみ
毎月1回(第2土曜日)川柳教室へ通っている。 高浜市文化協会で川柳部会を立ち上げるため市の広報で会員を募ったのがきっかけだが、応募の数は8名。
そのうち3名はいわゆるサクラであって、文協の会長、副会長、事務職員が名を連ねた。
純粋な応募者は総数5名で、後に思わぬ苦戦を強いられることになった。
最初の半年は文協からの補助で経費はまかなわれ、後の半年は各自が相応の負担をし、細々と会の運営が行なわれた。
これからが正念場である。
このままでは、安価な謝金でわざわざ岡崎から来ていただいている講師に申し訳ないし、会の盛り上がりにも欠ける。
会の存続そのものが危ぶまれるのである。
ということで、川柳に興味のある方、いらっしゃいませんか?
詳しくは、案内板をご覧下さい。
■川柳七句
なれそめは寒さしのぎの燗の酒
大酒を飲んで路上の子守唄
休肝日をつくってからです二日酔い
泣き上戸笑い上戸が酌み交わし
ふところが寒さ忘れる猪口のかず
粕汁の煮立つ湯けむり酔いがくる
雪ですねぇ女将が酌に香を添える
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